2017年4月8日土曜日

『ELECTRIC BATH』The Don Ellis Orchestra

 

「何をいまさら」な話だけど、このドン・エリスの『エレクトリック・バス』('67)のジャケットはアングルの『トルコ風呂』(『Le Bain turc』, Jean-Auguste-Dominique Ingres、1862)。



で、ジミヘンのアレはこのドン・エリスへの目配せなわけだ。

 

『Electric Ladyland』, The Jimi Hendrix Experience (1968)

もっとも、ジミのアイデアではないし、そもそものアメリカオリジナルはジミの横顔ジャケット。女だらけのジャケットはイギリス盤と日本盤だけ。
ドン・エリスの『Electric Bath』が前年の67年の発表だったことを考えると、イギリス盤を編集した誰かが、『Ladyland』というタイトルと、『Electric Bath』のジャケットを結びつけてこんなジャケットを考えたのではないか。

ジミの関係者は否定的なのかもしれないけど、そういう意味でもこのジャケットは優れている。ただ、ちょっと露出しすぎてるのは事実で、さすがにこのままの流通は難しかったのだろうけど。。。



2017年4月7日金曜日

『FROZEN DAYS』山下洋輔トリオ、 河野典夫による解説

  

河野典夫による、モンクと山下洋輔に関するエピソード。
別のところで引いた文章だが、ちらほらと需要があるようなのでここにも引いておく。

「マイフェイヴァリット・シングス」抜粋
『FROZEN DAYS』山下洋輔トリオ、 河野典夫によるライナーノーツ


(中略)
ーーきみ(山下洋輔)は、日本のセシル・テイラーじゃないよ。
ぼくは、セロニアス・モンクという感じがする。
そう、ぼくがいうと、
ーーそのほうが嬉しいな。
と、うなづく彼の素直さが好きだ。

その夜、たまたま出会ったグループと、ぼくの誘拐癖に乗って、
ぼくの家の、インド、ネパール、バリ島などの不思議な楽器をいじりまわし、ついに門外不出の歴史的録音を残して行った、彼の飲みっぷりが好きだ。

さて、その夜も明けそめる頃、セロニアス・モンクのソロ・レコードを聞きながら、カーペットの上に伸びていた彼は、いつか、安らかな寝息を、立てはじめていた。
ぼくは、そっと、レコードを停めたが、瞬間、彼の寝息はとまり、静かな低音が、きこえて来たのだ。
ーー裏をかけてくれませんか?

2017年3月10日金曜日

Serious Japanese / TERIYAKI BOYZ, 2009

 


整理してたら奥深い地層からでてきた1枚。

コーネリアスの「5th Element」がカッコよすぎます。
トラックの作り込み感(特に音質)が他と違いすぎる。。。
この1曲があるせいで、このCD捨てられなくなった。
どうしてくれる。

でも、フックの

DJ MC ブレイキン グラフ
Goota 和 Goota 和 ブルース・ウィルスも知らない
5th エレメンツ 5th エレメンツ
5th エレメンツ 5th エレメンツ

はなんとかしてほしかった。

ブルース・「ウィルス」と「ウィリス」、
誰もおかしいと思わなかったのかなあ。
フックであるだけに痛いです。

2016年2月16日火曜日

2016年1月19日火曜日

『音楽の未来を作曲する』野村誠、晶文社、2015








職場の近所の図書館で見つけた本。
エッセイ的な語り口ながら、書かれてることは実に深く、そして刺激的。
「作曲」について書かれているが、「即興」の本として読んだ。
以下、引っかかったところを引いておく。


86-87頁
 ディスカッションでも、声が大きい人の意見、即座に反論できる人の意見が、場を支配することが多い。即興演奏でも、音が大きく反応が速い人が主導権を握るケースが非常に多い。 ディスカッションとか即興演奏というのは、音の大きさと、反応の速さを競うゲームなのだろうか? 場馴れしていて経験が豊富な人は、自信を持ってはっきり発言(発音)するので、主導権を握れる。経験不足で自信のない人、じっくり考えて行動するタイプの人は、決して主導権が握れない。これでは、創造的な活動なのか、権力争いなのか、分からない。 では、この問題点を解消するためのルールを設定してみてはどうか? つまり、音が大きくても、反応が速くても、主導権を握ることができないルールを考える。そうやって生まれてきたのが、「しょうぎ作曲」だ。イギリスから帰国して三年後、三十歳のぼくが辿り着いた答えが「しょうが作曲」だった。そして、ぼくは「しょうぎ作曲」に没頭することになる。

 対等な関係 

しょうぎ作曲の特長は、機会が均等に与えられるところだ。反応が速くても主導権を握ったりはできない。作曲の経験が豊富な人と、音楽なんて大の苫手だという人の間に、上下関係は存在しない。子どもも大人もプロも素人も、みんな対等なのだ。 機会均等を実現するため、しょうぎ作曲では、トランプみたいに輪になって、順番に作曲する。各自一巡ごとに一回だけ、新しいパートを作曲できる。 もう一つ、参加者同士のヒエラルキーを作らないために、「他の人の作曲に一切口出しをしてはいけない」、というルールを考えた。各自が、自分のパートを作曲する。その作曲は、他人からに見たら作曲に思えないとしても、本人が作曲だと思うものなら、何でもいい。メロディーでもいいし、単なるノイズでもいいし、台詞を喋っていても、踊っていても、本人がそれを作曲だと思えば、それは(その人にとっての)作曲とする。 また、自分の作曲したパートは、自分で後で思い出せるように楽譜に書く。


「場馴れしていて経験が豊富な人は、自信を持ってはっきり発言(発音)するので、主導権を握れる。・・・これでは、創造的な活動なのか、権力争いなのか、分からない。」


というところにはハッとした。
ジャズ、特にビ・バップという音楽はまさにこの「権力争い」的なゲームとして発達した音楽なので、問題意識を抱いたことはなかった。けど、一歩引いてみると、確かに初心者は簡単に参加できないよなあ。もちろん、そうすることで一定の質を保証してるわけだけど。
筆者は、初心者が気軽に参加できて、しかも音楽の質を保証するような作曲(=音楽する、程度の意味として受け止めました)の方法を考え続けている。
こういう試みは、しばしば頭でっかちで、実際の音楽的な快楽を伴わないことが多いけど、この本を読んでる限り、筆者の音楽はすごい楽しそうで魅力的。

次の試みなんか、だれでもすぐに参加できるインプロヴィゼーションだ!
しかもこれ、絶対楽しいはず。

120-123頁
  「テキストのたね」
  腹の底からそいつは叫んだ
  そいつはドイツ人だった
  学生時代を思い出していた 

  森の中では小鳥が叫んだ
  小鳥だけではなく
  森の動物、みんなが叫んでいた
  熊さんはスタコラサッサと逃げて行った
  後ろから女の子が追いかけてきた
  その後ろから光が見えた
  来月こそは彼女を連れてドイツに帰りたい
  という夢から覚めた
  うつ病患者の幻覚
  わーははははー
  懐より煙草を一本取り出し火をつけた
  しかし火はつかなかった
  よく見るとライター君は「おれ、今やる気ねえんだよ。くすぐってるんだよ」と言って笑った ギャー

 このテキストを原作に、演劇にできないだろうか? そう考えて、このテキストを倉品さんに委ねた。すると、倉品さんは、これを演劇ワークショップの参加者だちと群読してみた。ところが、全員で一斉に読もうとするとうまく読めないらしい。なにか工夫が必要だ。そこで、各自が好きな四文節だけを選んで読むことになった。
 三十人ほどでこれをやると、一文節目は五人で読むが、二文節目は三人になり、三文節目は九人になり、とフレーズごとに人数が変動する。ぼくも実際にその群読に立ち合ったが、色々な場所から声が飛び出してくる。それは、まるでオーケストラの中の色んな楽器の組み合わせが、交代で立ち現れるようだった。そこにはリズムがあり、人数の増減がある。それは単なる朗読だが、既に作曲でありオーケストレーションではないか! そこで、この群読を音楽だと思って、発展させることにした。ここはピアニッシモ(弱い声)で読んでみよう。ここはスタッカート(短い声)で読んでみよう。ここは、アクセントをつけて。ここは、リタルダンド(だんだんゆっくり)して読む。ここはクレッシェンド(だんだん大声に)して読む、などとアイディアが出てくる。朗読の練習は音楽の練習のようになる。 ぼくは、この朗読をそのまま忠実に吹奏楽にアレンジすることを思いついた。そこで、誰が何文節目を読んだかを記録し、群読の様子をビデオに撮影し、作曲家の坂野嘉彦さんに編曲を委嘱した。坂野さんは、リズムも、人数も、演奏のアーティキュレーション(スタッカート、アクセントなど)も、ビデオに忠実に楽譜を作り、吹奏楽器にアレンジした。その曲は、えずこウインド♪アンサンブルが初演した。作文と朗読が、吹奏楽曲の作曲になった。


そして、何より興味深く読んだのが次の箇所。
作曲と楽譜を巡る考察です。


155-157頁

かたい楽譜とやわらかい楽譜

 「ホエールトーン・オペラ」の楽譜は、一体、何を記録しているのか? 「ホエールトーン・オベラ」の楽譜で、ぼくとヒューは何を追求しているのだろう? この楽譜は、大きく分けて以下の三種類のことを記録していることに気づく。
 ① 作曲のプロセス ② 作曲の結果 ③ 改訂の可能性
 ①の「作曲のプロセス」は、例えば、「ホエールトーン・スケール」を使ってメロディーを作るとか、書道をして、その曲線を図形楽譜とみなしてメロディーを創作するなどの方法のこと。②の 「作曲の結果」というのは、ワークショップで作曲された曲を再現するために、曲の構成、楽器の編成、メロディーライン、リズム、強弱、アーティキュレーション、ニュアンスなどを可能な限り厳密に書いたものを指す。または、その音楽を成立させる演奏上のルールを、できるだけ厳密に書いたものを指す。③の「改訂の可能性」は、②の楽譜を踏まえつつ、条件が揃わない時、または修正を加えたい時に、どう対応すべきかについての指示を指す。 楽譜と呼ばれる物のほとんどは、②(=作曲の結果)のみを記している。それは、次の二つの考え方によって成り立っていると思う。つまり、
 A)作曲とは完成するものである

 B)楽譜とは完成した楽曲を記録するものである
という二つの考え方だ。こうした考え方を前提にした楽譜を、「かたい楽譜」と呼んでみる。「かたい楽譜」で記された音楽は、それ以上、修正されることがなく、形をそのままに留めることができる。十年前にイギリスで作曲された音楽を、十年後のタイで演奏しても、十年前のイギリスと同じ音楽が再現されるようにできている。ところが、もし
 A’)作曲とは完成しないものである

 B’)楽譜とは未完成の楽曲に参加するために存在するものである
という考えに立つと、楽譜の意味合いが全く違ってくる。こうした楽譜を、「やわらかい楽譜」と呼んでみることにする。「やわらかい楽譜」の音楽は、形が変化することを前提とした楽譜である。十年前にイギリスで作曲された音楽を、十年後のタイで演奏する場合、十年前のイギリスの音楽と無関係ではないが、再現ではなく、作曲上の何らかの展開が起こるはずである。

そして、筆者による「音楽」の定義。
結局、メロディもリズムも、ハーモニーも音の一部でしかない。

189-192頁

 聴覚障害児との音楽活動を続ける作曲家の佐藤慶子に、『五感の音楽』(ヤマハミュージックメディア)という本がある。また、小松正史は、自身の研究分野をサウンドスケープではなく、「五感環境学」と呼んでいる。音を視ることを、音を触ることを、音を味わうことを、音を匂うことを忘れてはいけない。音楽は五感で感じるものだ。いや、ぼくらには第六感もある。第六感も含めた全感覚を通して音を体感する、その行為こそ音楽と呼ぶべきではないか。野外楽の作曲を探求していく中、ぼくにとっての「音楽」の定義は、音を耳で聴くことを超越し、音を全感覚で体感する行為になったのだ。ぼくにとっての音楽の定義は、こうなる。

定義: 音楽とは音を全感覚で体感する行為だ


以下はメモ。



259頁
 アナン・ナルコンは、バンコクのシラパコーン大学で民族音楽学を教えている民族音楽学者。日本にかつて小泉文夫という民族音楽学者がいて、多くの人を民族音楽の世界に導いたが、アナンはタイにおける小泉文夫的存在で、東南アジアの各地にアナンの教え子がいる。出世を望めば彼はすぐに教授のポストに就けるだろうが、ずっと平の講師を続けている。権威よりも自由を愛し、常にユーモアいっぱいで、鋭い批評を笑って語る。「のだめカンタービレ」から、福岡式自然農法まで、あらゆる情報を網羅する半端ない知識量の持ち主だが、難解な言葉遣いを嫌い、下ネタが好きで、優しい紳士だ。だから、みんなアナンのことが大好きで、アナンと一緒に音楽をしたいと思う。


274頁
 無農薬で野菜を育てる時に、コンパニオン・プランツという手法がある。トマトの側にバジルを植えると相性が良く、バジルの香りで、トマトの害虫がよりつかなくなる。キャベツの周りの雑草は刈らない方が、害虫被害が出ない。相性の良い組み合わせをコーディネートできれば、それぞれの長所が活かし合えるし、相性の悪い組み合わせになると、お互いの短所の掛け合わせで最悪の結果になる。では、オーケストラは何と組み合わされば、活かされるのか? そんなコーディネートをすることも、ぼくの仕事になった。


野村誠さん、すごく面白そうな人です。
次はこの人の音楽を体験してみたい。